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数学記述の方法~論理的答案について 8


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

---------------------------------------------------------


以上を要するに、
答案の中では、
論理的に説明する必要があるため、

その記述は何故なされるのか、
及び
接続語と公式・定理の名前、
を常に意識すべきである。

ただ、
これらは無限にあるわけではなく、
ほとんど同じパターンである。

論理法則も、
ほとんど唯一、
「三段論法」だけである。

したがって、
身につけることは、
それほど困難ではないので、
心配するほどのことはない。

なお、
数学の答案では、
描ける問題であれば、
図や表は必ず描くべきである。

図や表を描くことは、
理解を示す、
あるいは理解を示そうとしている、
という態度の表れであり、

また、
描いてある答案が
かなり少ないので、

京都大学の
数学科の教授の言によると、
かなり評価が高いとのことである。



(了)



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数学記述の方法~論理的答案について 7


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

---------------------------------------------------------


また、
公式や定理の名前も
案外軽視されがちである。

証明問題ならば、例えば、
「数学的帰納法によって題意を証明する。」
といったような、

証明の方針を一言、
冒頭に書くだけでも、
採点者に与える印象が全然違うし、

ほんの一言、
「三平方の定理より」
「解の公式から」
と記載するだけで、

記載していない答案に比して
かなり好印象となる。

何より、
書いていない答案のほうが
圧倒的に多いため、

他の受験生と
差をつけることのできる、
大きな要因であるとのことである。

当たり前と言えば、
あまりに当たり前の記述ではあるが、

しかし、これらは、
なぜそのような計算式になるか、
という説明として、

「非常に重要な部分」
であるから、
決して軽視すべきではない。

要は、
接続語や定理や公式等を明確に示して、
論理の流れを明らかにする記述が、
重要である、ということである。

当たり前のことを、
当たり前に、明確に記述する、
ということが非常に重要なのである。



(続)



数学記述の方法~論理的答案について 6


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

---------------------------------------------------------


ここで案外、
軽視されがちなことは、
接続語である。

こだわる必要はないが、
大いに注意を払うべきである。

数学の答案で使う接続語の多くは、

「とすると」「したがって」
「よって」「以上から」
「また」「さらに」「同様に」
の順接・並列・添加の接続語と、

「ところで」あるいは「ここで」という、
転換の接続語である。

「とすると」は、
文字に置き換えた場合などに多く使う。

これを、
論理の世界では「接続表現」という。

順接の接続語の順序としては、概ね、
「したがって」→「よって」→「以上から」
である。

前述の、
今までの流れとは、
直接関連のない別の方向からの
記述のときに使われるものが、
「ところで」である。



(続)



数学記述の方法~論理的答案について 5


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

---------------------------------------------------------


したがって、
答案作成に当たっては、

言葉を用いて、
論理構造を
明らかにするということを、

普段の受験勉強のときから、
明確に意識すべきである。

数学の問題の解答として、
「言葉を用いて」
と言うと、違和感があるかもしれないが、

このことが、
論理構造・論理展開を
明確にするということなのだ。

確かに、
問題によっては、
むりやり解法を丸憶えするようなものも、
ないとは言えない。

ないとは言えない、
どころか、
かなり多いものでもある。

しかし、それでも、憶える際に、
論理展開を意識することによって、
解法がかなり頭に入る。

初見の問題についても、
論理を意識することによって、

自然とその解法が
頭に浮かぶようになり、

また、
自然とその発想が
出てくるようになるのである。

これが
受験数学の発想力の分かれ目になり、
単に減点されない答案になる
という以上に、

合格により近づくための、
合格に到達するための、
極めて有力な武器になるのである。

試験で問題を答える時にも、
数学を勉強する時にも、
どのような記述が論理として重要か、

ということを意識して、
客観的・論理的な
答案作成を心がけるべきである。



(続)



数学記述の方法~論理的答案について 4


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

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答案とは、論理的に完結した一つの
「文章」に
ならなければならないのである。

とするならば、
この答えになるという道筋が明確で、

答案を見て採点する人が、
確かにこの論理だったら、

この答えは成り立つだろう、
と思わせるために

しっかりと
論理構造を明らかにして
記述する必要がある。

そう考えると、
答案の1行目から何も断らずに、
いきなり計算が始まって

計算だけが、ずーっと続いて、
最後に答えが書いてある、
という答案は、

確かに、
計算の過程は示してあるが、

例えば、
その間にどんな公式を使ったのか、

どういう根拠で
その計算が成り立っているのか、

同値なのか、
必要条件なのか、
十分条件なのか・・・・・が不明である。

つまり、
「説得的」な記述とは言えない、
ということである。

このようなことまで
記述できている答案でないと、
完結した答案にはならないのである。



(続)



数学記述の方法~論理的答案について 3

かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

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確かに、
基本的には受験数学というものは、
答えを導くということが
第一目標になる。

しかし、
問題によっては、
答えを導くところは
「おまけ」のようなものであって、

どうやって、
あるいは、
なぜそのような答えになるのか、
どの方法を使っているのか、

ということを明記することに、
重点を置かれているという
問題もある。

と、言うより、
そういう問題のほうが多いのである。

基本的に数学の問題というものは、
書き出しから、答えまで
何かしらの記述をする。

ここで、
なぜわざわざ記述をするかについて、
考えてみる。

そもそも、
数学の答案には流れがある。

つまり、
何か1行あって、
それが理由・根拠となって
次のことが導かれる。

そして、
その導かれた結果が、
前提条件あるいは理由となって

また次の記述が導かれる、
ということが繰り返される、

すなわち、
前の行が条件となって
次の行が導かれることが繰り返される、
という構造を採る。

つまり、
三段論法が連続しているという、
論理構造である。

ときどきは、
関連のない別の方向からの
記述がなされることもある。

しかし、基本的には、
一直線の流れが
答案の中にあるはずである。

これが、
論理の流れ、
論理展開と言われるものである。



(続)



数学記述の方法~論理的答案について 2

かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

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数学の問題に対して
答案を作成し、
採点者に提出するという一連の行動は、

「私は、この問題について
このように解きます。」
ということを

「客観的」かつ「説得的」に
採点者に、
解答用紙を用いて、
説明してすることである。

だから、
いきなり、
その答えだけ示されても、
何故その結論を採るのか、という、

その理由が
はっきりしないのでは、
客観的な説得性は持ちえない。

その意味では、
国語の小論文と共通している。

もっとも、
国語の小論文とは異なり、

反対論を紹介して、
それを批判し自説の説得力を高める、
ということをしなくてもいい、

したがって、
自分の結論に
一直線に進めばいいという分、

数学の答案作成のほうが、
楽と言えば楽である。

ともかくも、
論理構造を明らかにして
答案を作成する練習をすることが、

数学の答案作成の勉強において、
最も重要なことなのである。

説得的に記述するのであるから、
数学の答案では、

計算と同じくらいに重要なことは、
実は、「言葉」なのである。

確率の問題の解答などでは、
半分以上が、
文章となるものもあるのだ。



(続)



数学記述の方法~論理的答案について 1

かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

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数学と言うと、
一般的には、
計算で答えを出すことが、

問題に答えることだと
考えられている。

確かに、
それは、そのとおりではある。

しかし、
試験で問われるのは、
答えよりも、むしろ、
その答えを導き出した過程である。

数学の解答というものは、
自分の結論に至るまでの過程を
「説得的に」「表現」するものなのである。

したがって、
これは、間違いなく、
「パフォーマンス」である。

もちろん、
「表現力」なるものが
要求されているわけではない。

もっとも、入試に限らず、
また、数学に限らず、
一般的に筆記試験というものは、

問われたことに対して、
「そのことについて、
自分は知識を持っています。」

ということを、
採点者に示すことであるから、

「表現力」を要求されていない、
「パフォーマンス」なのである・・・

受験者としては、
表現しなければならないのであるから、

「本当は、出来るんだけど・・・・・」
などという言い訳は、

少なくとも採点者に対しては、
無意味である。

当然である。

出来るのだったら書きなさい、
ということなのだ。


(続)



現代文~筆者はどう考えているか 5 

かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

以前にアップした記事を再掲する。

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現代文の読解問題の出題者は、
当然、その道の
プロフェッショナルである。

論理的根拠なしに
正解になるような問題は、
決して出さない。

「何となく」
などという理由では、
当たらないというか、
当て「させない」のである。

反面、これは要するに、
問題の本文に
記載してあることを前提とすると、

こういう理由により、
論理的・客観的に導かれる結論・答えが、
これである、ということが、

説明できるような「答え」を書けば、
それが「正解」になるということになる。

このように、
筆者の考えを問うている問題に限らず、
現代文の読解の勉強で重要なことは、

常に「なぜこれが答えになるのか」
ということを意識して、

その理由を
論理的に説明しながら
問題を解く練習をすることである。

これは評論文に限らず、
小説の主人公の思いや考えを答える問題でも、
同じである。

ただ注意すべきは、
センター試験のような択一式問題の場合、

問題によっては、
指示されている本文からは、

筆者の考えや言いたいこと、
あるいは主人公の思いなど、

訊かれていることが
「はっきりしない」
ということがあり得る。

とするならば、
「はっきりしない」
ということを示す選択肢が、
正答になることもあり得るのである。



(了)



現代文~筆者はどう考えているか 4 


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

何日かに亘って、
以前にアップした記事を再掲する。

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したがって、この
「筆者の考えを述べよ。」
という問いは、

あくまでその文章「だけ」から、
客観的に読み取れる主張や意見を
聞いているのであるから、

筆者の固有の考えとは
反対の主張が、

問題文から読み取れた
「筆者の考え」
となっても全然構わないのである。

したがって、
答える側としても、

当然そのことについてのみ、
答えればいいということになる。

現代文の読解問題では、
全て答える側の
客観的思考力が問われているのである。

客観的思考ということは、
誰もが納得できるように、

客観的に説明できなければならない、
ということであるから、

何故それが、
その文章から読み取れる筆者の考えか、
という理由を、

客観的に
説明できることが必要となる。

だから、
「私は何となくこう思った。」
などという、受験生の主観が理由では、
まず正解にならない。



(続)



現代文~筆者はどう考えているか 3


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

何日かに亘って、
以前にアップした記事を再掲する。

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かつて、
入試問題の題材として、
自分の著作を提供した作家が、

「俺はそんなことを
考えていたわけではない。」
と言ったらしい。

しかし、
国語現代文の問題とその答えとしては、
それでもかまわない。

そう言いたい気持ちも
わからないではないが、
この点に関しては、その批判は的外れである。

何故なら、
その作家の固有の主観的な考えを、
問うているのではないからである。

したがって、
当該の筆者が、
その文章を含む全体の文を
書いたときの考えや、

あるいは、
その全体から
読み取れる筆者の考えと

異なっていることは、
大いにあり得るのである。

何故なら、
問題の本文として採用された文章は、

例えば、
自分の考えと異なる考えを
紹介している部分かもしれないからである。



(続)



現代文~筆者はどう考えているか 2


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

何日かに亘って、
以前にアップした記事を再掲する。

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「次の文章を読んで、以下の問いに答えよ。」
問「筆者の考えを述べよ。」
とは、

この文章だけから、
受験生が、
主観的に思うものではなくて、

客観的に読み取ることのできる、
筆者の意見や主張や考えは何か、
ということが問われているのである。

たから、筆者が
主観的に、全人格的に、

実際に、
どのような考えを持っているか、
などと聞かれているわけではない。

だいたい、
そんなことを聞かれたって、

見ず知らずの筆者の
全人格的な考えなど、
答えられるわけがない。

つまり、
問題文に引用された文章を含む
1冊の本全部を読まなければ、

あるいは、
その筆者の全著作を読まなければ、

そんなことは、
わかるわけがないのである。

それでも、
わからないかもしれない。。。



(続)



現代文~筆者はどう考えているか 1 


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

本日以降、何日かに亘って、
以前にアップした記事を再掲する。

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「筆者の考えを述べよ。」

現代文の問題でよくある問いである。

その問題の
一番最初にある文に着目してほしい。
何と書いてあるか。

大概は、
「次の文章を読んで、以下の問いに答えよ。」
と書いてある。

そして、その、
「以下の問い」の中に、
筆者の考えを問う問題がある。

そして、問題文本文には
「次の文章を読んで」
とある。

これは、
次の文章から読み取りなさい、
と言っているということである。

これはどういうことか。。。
この問題文本文を言い換えると、
どうなるか。。。

それは、
その文章から読み取れる、
筆者の考えは何か、ということである。

すなわち、
この文章だけから
読み取れる筆者の考えは何か、

あるいは、
この文章においてのみ
成り立つ筆者の考えは何か、

ということが
訊かれているのである。



(続)


宿題・課題の「消化」プロジェクトチーム 3


以前にアップした記事を再掲する。

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では、
実際問題としてどうするか。

以下は特に高校においての提言であるが・・・

ひとつの方法として、
友達同士で
科目ごとに得意な者に担当させ、

担当以外の者は
書き写すという、

プロジェクトチームを作る
という方策も
考えられるべきかもしれない。

こうすれば、
時間を節約できて、
その分、遊びや、

大学受験に向けた、
より実践的な勉強に
振り向けることができる。

しなしながら、
残念なことに全ての宿題・課題を

自分ひとりで
取り組んでいたのでは、

かなりの生徒は、
高校卒業までに大学入学に、

十分な学力を
蓄積する時間を得ることは
困難であると言わざるを得ない。

以上から、
「宿題・課題消化プロジェクトチーム」
の編成を考えてもいいのではないか。

ひとつの提案である。



(了)



宿題・課題の「消化」プロジェクトチーム 2


以前にアップした記事を再掲する。

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そもそも、
本当に生徒のための宿題・課題であれば、

個々の生徒に、
得意不得意科目に違いがある以上、

本来、個々の生徒ごとに
異なる宿題・課題で
なければならないはずである。

しかし現実は、
クラス全員あるいは学年全員が、
同じ課題・宿題を課される。

確かに、
現実問題として、
40人なり320人なりの生徒全員に

異なる宿題・課題を出すのは
不可能であろう。

とすれば、
出題する教師の側は、生徒の全員が、

自己の力だけで
宿題・課題終わらせるということ自体、

本音では、
期待していないと考えるべきである。

したがって、
宿題・課題とは、
学生の自己の学力向上のための手段に
過ぎない以上、

必ずしも、その全部を、
自分一人でしなければ、
ならないわけではないと考えられる。



(続)



宿題・課題の「消化」プロジェクトチーム 1


以前にアップした記事を再掲する。

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小学校から高校まで、
学校は、

たいがい宿題あるいは課題と
呼ばれるものを生徒に課す。

学校は
これを何のために出すのか?

当然、
生徒の学力向上のためである。

つまり、
あくまで生徒の学力を上げるための
手段であり、

当然のことながら、
宿題・課題それ自体が目的ではない。

とするならば、
学力が向上すれば、

必ずしも宿題・課題は
そのための必須の手段ではないと言える。

では、
学力向上をどうやって測るか。

これは当然試験である。

となれば、
試験問題に正答して、
学力向上が示せれば、

宿題・課題という手段を取る必要は
必ずしもないということになる。



(続)



紫陽花の時期に思い出すこと~鎌倉五山~


つい先頃
満開の桜の下で、
花見を楽しんだと思ったら、

藤、つつじと、
あっという間に散っていき、

早くも
紫陽花が咲き始めた。

もう梅雨の季節が近い。
入試まで残り8ヶ月しかない。

改めて、
1年の過ぎることの速さにぞっとする。

まさに
「光陰矢の如し」
“Time flies like an arrow.”
である。

因みに「光陰」、
「光」は日、

「陰」は太陰暦に見られるように、
月の意味で、
「光陰」は月日や時間を表す。

紫陽花といえば、
鎌倉の明月院が有名である。

塾長は、
大学3年までは、
時間を見つけては、毎週鎌倉に行っていた。

そのころは、
入山料や拝観料などは
取られなかった。

鎌倉で
入山料や拝観料を取っていたのは、

鎌倉五山寺格第一位の
建長寺くらいなもので、

円覚寺も
国宝の舎利殿に入る所だけだったし、

長谷寺も
大仏の中に入るときだけであった。

その建長寺も
何度も行って顔馴染みになると
タダで入れてくれた。

いい時代だったのかもしれない。

建長寺で思い出した。

鎌倉五山…
建長、円覚、寿福、浄智、浄妙。

五山つながりで、
ついでに京都五山…

天龍、相国、建仁、東福、万寿。
別格本山、南禅寺。

大学受験時代、訳も分からず、
行ったこともない寺の名前を、
お経のように唱えて覚えたことが、

何十年経っても、
今でも頭に残っている、
と友人が笑っていた。



(了)



95試合目~東京六大学・東大野球部平成27年春のシーズン~


94連敗中の東大が、
5月23日の対法政戦で

延長10回4-4の
1アウト2、3塁から、

4番楠田創外野手(2年=桐朋)の
2塁ゴロが、

本塁へのフィルダースチョイスを誘って
1点を勝ち越した。

さらに1点を追加して
2点をリードして10回裏に入った。

その裏、
東大は法大の攻撃を無失点にしのぎ
勝利を収めた。

東京六大学野球公式戦で
東大が95試合目で白星。

連敗にストップをかけた。

そのことよりも驚いたのは
前日から当日の朝にかけて
何度も勝つような気がして

直前まで神宮に行くかどうか
迷っていたことである。

結局行かなかったのだが
ニュースを見て、しまった!と思った。
予感が的中した。

歴史的瞬間(!)を見損なった。

だが、
自分が行かなかったから
勝ったのかもしれない、と思い直した。

かつて、
サッカーワールドカップの
ドーハの悲劇の時、

仕事で外出していて、
急いで帰宅し、

玄関を開けるなり「どうなった?」
と叫んだ瞬間に
ゴールを決められ、

家族中から、
負けたのは、大声が原因で、

家族全員の
集中力を奪われたせいだ、
と怨嗟の声を浴びて以来、

スポーツの試合で、
ひいきのチームを
直接応援しないようにしている。

東大のように負け続けていると
ツイこんな縁起もかつぎたくなる。

それにしても、
東大野球部100連敗の予想が
覆ってよかった。。。

何だか、
できたばかりの
東北楽天ゴールデンイーグルス。

最初のシーズン、
年間130試合中、

100敗するのではないかと
言われたことを思い出す。



(了)



5月、祭りの季節に想うこと~現政権と主権者国民~ 7


そもそも裁判所は、
憲法を含む法規範について、

国家としての統一見解を
示す機関であり、

最高裁判所は、
法規範の解釈について、

国家機関たる裁判所としての、
統一見解を示すところである。

しかしながら、
少なくとも、
世間の耳目を集めた事件について、

最高裁判所が、
国家機関として、

行政行為の違憲無効の判決を
出したことはないはずである。

こうなるともはや、
三権分立制の理念はともかく、

こと行政権を抑制するという
場面においての、
司法機関の働きは

現実には、全くといっても良いほど
機能していないと
評価せざるを得ない。

こうなると、
自分達の生活を守るためには
国民の主権者としての
自覚と行動しかない。

今年は
祭りに浮かれている場合ではないのだ。

さあ、どうする・・・・・



(了)



5月、祭りの季節に想うこと~現政権と主権者国民~ 6


立法権が
行政権の抑制ができないのであれば、

本来は、裁判所が、
行政権の暴走を抑える役目を
担うはずなのである。

しかしながら、
高度な政治判断を要する行為については、
三権分立の性質上、

司法権は及ばないとする、
統治行為論、

あるいは、
本来的に受け身である司法権は、

積極的に
国民生活に対応する
行政機関の決定に対して、

濫りに
無効と宣言すべきではない、

若しくは、
介入すべきではないとする、
司法消極主義により、

行政行為の
憲法違反の問題に対しては、
裁判所は総じて及び腰である。

残念ながら、
司法機関は行政機関の行為を

違憲無効とすることについては、
極端なほどに
慎重なのである。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 5


一昨年、
ナチの手法を真似られないものか、
と言った、

財務大臣・副総理の発言は
冗談ではなかったようである。

人類史上最も民主的と言われた、
ワイマール憲法を、

民主的な手続を「装って」
骨抜きにしていった、

ヒトラーの手法を
そっくり踏襲している。

だが、
アメリカ合衆国日本出張所と揶揄される
わが国の外務省が

今の風を吹かせている、
元凶の一つであるのも確かである。

外務省は
以前から自衛隊の
海外派兵を強く望んでいた。

日本国憲法の理念と異なり、
現実は残念ながら
三権分立になっていない。

日本は
行政権力が異常に強いのである。

これは、
極めて複雑化する現代社会に
対応できる国家機関は

行政権しかないから、
やむを得ない部分もあるが、

それでも、
立法権や司法権に比して、

極端に
肥大化する行政権というものは、

相互に
抑制均衡の関係を
持たせようとする趣旨の、

権力分立の原理からは、
決して望ましいことではない。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 4


憲法を
解釈や法律により、
実質的に変更することや、

憲法改正手続規定を、
改正することは、

軍事的安全保障・集団的自衛権の
行使容認の問題だけに
とどまらない。

何より、
基本的人権の保障を
その中核とする憲法というものは、

国家・公権力による不当な侵害から
国民を守る盾なのである。

だからこそ、
人権保障を
その中核に置いてあるからこそ、

国家においては、
最重要の法規範であり、

それ故に、
憲法改正は通常の法律と異なる、

厳格な手続を
要求されているのである。

これは、当然である。

人権保障規定が、
時の政権に都合のいいように

変えられることを
許すわけにはいかないからだ。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 3


また、
現政権は、
憲法改正手続が厳格すぎるという理由で、

こともあろうに
その改正手続を改正しようとしている。

現行憲法の改正手続規定は、
硬性憲法という憲法の性格を決定する、
最も重要な要素の一つである。

これが改正されたら、
憲法の性格が変わってしまう。

憲法の性格が
変わってしまうということは、

改正手続改正「前」の憲法と、
改正手続改正「後」の憲法との

同一性が
否定されるということである。

したがって、
憲法改正手続の改正は
理論的に不可能なのである。

緩和した
憲法改正手続持つ憲法が
欲しいのであれば、

現行憲法を廃止して、

新たに
その緩和した改正手続を持つ、
憲法を制定しなければならない。

「マジェスティック」
というアメリカ映画がある。

この映画のクライマックスで
主人公がこのように言う。

「憲法というものは
国民が国と交わした最も重要な契約です。」

まったくもってそのとおりである。

契約というものは、
当事者双方の意思の合致である。

一方の当事者である
権力者の都合により、

それこそ
一方的に変更することは
許されないのである。

憲法を
変更することができるのは唯一、

憲法を制定する権力・権限を有する、
主権者国民だけである。

そして、
憲法が一時的な気分や、
「拍手」「喝采」によって
変更されないように、

その手続には、
極めて厳格な手続が
要求されているのである。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 2


集団的自衛権の行使容認についての
是非は、
この際措いておこう。

たとえ、
集団的自衛権の行使容認という内容を
「是」としても、

その手続過程が、
内閣による憲法解釈の変更と、
法律による具現化というのでは、

これは大問題である。

現政権が
日本国として、
集団的自衛権の行使を

容認することが正しいと
思うのであれば、

堂々と憲法改正を提案して、
国会議員の3分の2以上の賛成で

国会に発議して、
国民投票に付すべきである。

それをしないというのは、
現政権に正攻法では
憲法改正ができないという認識や、

あるいは、憲法を改正することに、
どこか後ろめたい気持ちが
あるからだろう。

だから、
憲法改正ではなくて、
政府の解釈や法律で、

集団的自衛権の行使を
事実上容認するというのは、

いかにも、
アンフェアであるとの印象は否めない。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 1


東京の5月は、
第2週の神田祭に続いて
第3週は浅草三社祭、東大五月祭だ。

東京は
この祭りの季節を迎える頃が
さわやかな風が吹いて
最も気持ちよい。

塾長が
かつて住んでいた仙台も、
5月が一年で最高の時期である。

杜の都と評される仙台の5月の風は、
ことのほか心地よい。

しかし、
今年は厭な風が吹いている。

元凶は現政権である。

現政権は、
昨年憲法解釈を
変更するという手法により

集団的自衛権の行使を
可能とする
実質的な憲法改正を行った。

今年は、
憲法より下位にある法律によって、

集団的自衛権の行使容認を
具体化しようとしている。

いわゆる安全保障法制の制定である。



(続)



高い生活水準を望まない人~個人の人生観と経済政策 3

国民全体の豊かさの実現を
否定する意図で言ったのではない、
という反論が考えられる。

しかし、竹中平蔵氏のように、
経済政策の重要なブレーンの発言は、
好むと好まざるとにかかわらず、

発言者の意図とは無関係に
一人歩きするものなのだ。

竹中氏は、
そういう事態まで考慮に入れて、
発言すべきである。

それと、
まさか、そんなことはないと思われるが、

もし、竹中平蔵氏自身が
経済成長を目指さないことや、
国民の貧困化を

正当化しようと意図して、
殊更に発言しているのであれば、

これはもう、
国家・国民にとっては、
害悪以外の何物でもない。

国民全体を貧困から救い、
経済的な豊かさを実現するという、

経済政策の最も重要な目的に
真っ向から対立する。

もし、万が一そうであるなら、
即刻、
経済政策のブレーンから、
退いてもらわなければならない。



(了)



高い生活水準を望まない人~個人の人生観と経済政策 2


そもそも、
竹中平蔵氏は、経済学者であり、

また、現政権において、
経済政策の決定に

重大な影響を与える、
産業競争力会議のメンバーである。

経済政策の目的は唯一、
国民全体を貧困から救い、
経済的に豊かにすることである。

経済政策の専門家が、
こんなことを
言うべきではないだろう。

これでは国家が、
国民全体の経済成長を
目指さないことが、
正当化されることになってしまう。

また、
一部であると思われる、

経済的豊かさを求めない人の価値観を、
殊更に言うべきではないだろう。

それでは、
国民個々人が
経済的に貧しいことが、

一般的状態であるということに、
正当化されてしまう。



(続)



高い生活水準を望まない人~個人の人生観と経済政策 1

経済学者の
竹中平蔵氏がメディアの中で、

「生活水準が下がるのが
当たり前の時代、

高い水準なんか望まないという
人生観も尊重したい」

と言ったそうだ。

確かに、
彼のこの言のように、
経済的に豊かな生活を望まない人も
いるだろう。

そういう人の存在自体は
否定しない。

それは、
個々人の価値観や思想の問題だからである。

そして、
そういう個々人の思想自体は、
尊重すべきであることは、言を待たない。

しかし、
生活水準が下がることを
当たり前として、

社会一般が、
受け入れなければならないだろうか?



(続)



1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府


これは余りに有名な語呂あわせだ。

しかし、
これが1185(いいはこ)に
変わってしまった。

「いいはこ」では、意味が分からない。

幕府というのは単なる器=箱ではなく、
征夷大将軍を首長とする、

武家政権における政治制度を含めた、
広範な意味を持っている。

似たようなものに
710(なんと)
りっぱな(すてきな、綺麗な、とも言う)
平城京、というものがある。

これを最近の小中学生が
「納豆」ねばねば平城京、
と言って覚えている。

これも、
これでは意味が分からない。

もちろん、
これでも、覚えていないよりはずっといい。

しかし、
「なんと」というのは、
南都であって、

これは、
平安時代以後の奈良の呼び名で、
平安京から見て
平城京が南に位置したことに由来する。

同じ歴史で
南都六宗(なんとりくしゅう)が出てくるが、

これが710年平城京遷都で
「納豆」では両者が結びつかない。

このように、
関連付けの基本的なものまでも、
いい加減になってきているようだ。



(了)



官僚という存在について思うこと 2


当然、
優秀な官僚はいくらでも居るし、

また、
官僚は国家社会にとって
必要不可欠なのである。

どうも、
我々は一部の不都合を見て、
その全体を評価し、

官僚は悪、大企業は悪、
原発に関わるものも悪、
朝日新聞もNHKも悪、

と十把ひとからげに
つい、言ってしまいがちだ。

その誤りについては
措いておくにしても、
このように言うことによって、

優れた人材が
それらの分野を
目指さなくなる恐れがある。

原子力発電所を例にとると、
原発は、
再稼働するにせよ、廃止するにせよ、

今後何十年にも亘って長期間、
細心の注意と最新の技術で
管理し続けなければならない。

そのためには、
原子物理学を修めた、
管理を担当する
専門技術者が必要なのだ。

原発は、自動車のエンジンと違って、
原子炉の運転を止めれば終わり、
というわけではないのである。

原発や電力会社を叩いて、
いっとき溜飲を下げても、

原子物理学を目指す人材が
いなくなれば、

将来的には、
原子力発電所を稼働も廃止もできない、
ということになってしまう。

こと原発に限らず、官僚についても、
優秀な人材が、
重要な分野に集まらなくなることは、

社会全体に対する損失が、
あまりにも大きいのである。



(了)



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