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現代文~筆者はどう考えているか 1 


かれこれ、
新年度になって既に2ヶ月が経過した。

非情にも、
受験本番はどんどんと近づいてきている。

本日以降、何日かに亘って、
以前にアップした記事を再掲する。

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「筆者の考えを述べよ。」

現代文の問題でよくある問いである。

その問題の
一番最初にある文に着目してほしい。
何と書いてあるか。

大概は、
「次の文章を読んで、以下の問いに答えよ。」
と書いてある。

そして、その、
「以下の問い」の中に、
筆者の考えを問う問題がある。

そして、問題文本文には
「次の文章を読んで」
とある。

これは、
次の文章から読み取りなさい、
と言っているということである。

これはどういうことか。。。
この問題文本文を言い換えると、
どうなるか。。。

それは、
その文章から読み取れる、
筆者の考えは何か、ということである。

すなわち、
この文章だけから
読み取れる筆者の考えは何か、

あるいは、
この文章においてのみ
成り立つ筆者の考えは何か、

ということが
訊かれているのである。



(続)


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宿題・課題の「消化」プロジェクトチーム 3


以前にアップした記事を再掲する。

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では、
実際問題としてどうするか。

以下は特に高校においての提言であるが・・・

ひとつの方法として、
友達同士で
科目ごとに得意な者に担当させ、

担当以外の者は
書き写すという、

プロジェクトチームを作る
という方策も
考えられるべきかもしれない。

こうすれば、
時間を節約できて、
その分、遊びや、

大学受験に向けた、
より実践的な勉強に
振り向けることができる。

しなしながら、
残念なことに全ての宿題・課題を

自分ひとりで
取り組んでいたのでは、

かなりの生徒は、
高校卒業までに大学入学に、

十分な学力を
蓄積する時間を得ることは
困難であると言わざるを得ない。

以上から、
「宿題・課題消化プロジェクトチーム」
の編成を考えてもいいのではないか。

ひとつの提案である。



(了)



宿題・課題の「消化」プロジェクトチーム 2


以前にアップした記事を再掲する。

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そもそも、
本当に生徒のための宿題・課題であれば、

個々の生徒に、
得意不得意科目に違いがある以上、

本来、個々の生徒ごとに
異なる宿題・課題で
なければならないはずである。

しかし現実は、
クラス全員あるいは学年全員が、
同じ課題・宿題を課される。

確かに、
現実問題として、
40人なり320人なりの生徒全員に

異なる宿題・課題を出すのは
不可能であろう。

とすれば、
出題する教師の側は、生徒の全員が、

自己の力だけで
宿題・課題終わらせるということ自体、

本音では、
期待していないと考えるべきである。

したがって、
宿題・課題とは、
学生の自己の学力向上のための手段に
過ぎない以上、

必ずしも、その全部を、
自分一人でしなければ、
ならないわけではないと考えられる。



(続)



宿題・課題の「消化」プロジェクトチーム 1


以前にアップした記事を再掲する。

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小学校から高校まで、
学校は、

たいがい宿題あるいは課題と
呼ばれるものを生徒に課す。

学校は
これを何のために出すのか?

当然、
生徒の学力向上のためである。

つまり、
あくまで生徒の学力を上げるための
手段であり、

当然のことながら、
宿題・課題それ自体が目的ではない。

とするならば、
学力が向上すれば、

必ずしも宿題・課題は
そのための必須の手段ではないと言える。

では、
学力向上をどうやって測るか。

これは当然試験である。

となれば、
試験問題に正答して、
学力向上が示せれば、

宿題・課題という手段を取る必要は
必ずしもないということになる。



(続)



紫陽花の時期に思い出すこと~鎌倉五山~


つい先頃
満開の桜の下で、
花見を楽しんだと思ったら、

藤、つつじと、
あっという間に散っていき、

早くも
紫陽花が咲き始めた。

もう梅雨の季節が近い。
入試まで残り8ヶ月しかない。

改めて、
1年の過ぎることの速さにぞっとする。

まさに
「光陰矢の如し」
“Time flies like an arrow.”
である。

因みに「光陰」、
「光」は日、

「陰」は太陰暦に見られるように、
月の意味で、
「光陰」は月日や時間を表す。

紫陽花といえば、
鎌倉の明月院が有名である。

塾長は、
大学3年までは、
時間を見つけては、毎週鎌倉に行っていた。

そのころは、
入山料や拝観料などは
取られなかった。

鎌倉で
入山料や拝観料を取っていたのは、

鎌倉五山寺格第一位の
建長寺くらいなもので、

円覚寺も
国宝の舎利殿に入る所だけだったし、

長谷寺も
大仏の中に入るときだけであった。

その建長寺も
何度も行って顔馴染みになると
タダで入れてくれた。

いい時代だったのかもしれない。

建長寺で思い出した。

鎌倉五山…
建長、円覚、寿福、浄智、浄妙。

五山つながりで、
ついでに京都五山…

天龍、相国、建仁、東福、万寿。
別格本山、南禅寺。

大学受験時代、訳も分からず、
行ったこともない寺の名前を、
お経のように唱えて覚えたことが、

何十年経っても、
今でも頭に残っている、
と友人が笑っていた。



(了)



95試合目~東京六大学・東大野球部平成27年春のシーズン~


94連敗中の東大が、
5月23日の対法政戦で

延長10回4-4の
1アウト2、3塁から、

4番楠田創外野手(2年=桐朋)の
2塁ゴロが、

本塁へのフィルダースチョイスを誘って
1点を勝ち越した。

さらに1点を追加して
2点をリードして10回裏に入った。

その裏、
東大は法大の攻撃を無失点にしのぎ
勝利を収めた。

東京六大学野球公式戦で
東大が95試合目で白星。

連敗にストップをかけた。

そのことよりも驚いたのは
前日から当日の朝にかけて
何度も勝つような気がして

直前まで神宮に行くかどうか
迷っていたことである。

結局行かなかったのだが
ニュースを見て、しまった!と思った。
予感が的中した。

歴史的瞬間(!)を見損なった。

だが、
自分が行かなかったから
勝ったのかもしれない、と思い直した。

かつて、
サッカーワールドカップの
ドーハの悲劇の時、

仕事で外出していて、
急いで帰宅し、

玄関を開けるなり「どうなった?」
と叫んだ瞬間に
ゴールを決められ、

家族中から、
負けたのは、大声が原因で、

家族全員の
集中力を奪われたせいだ、
と怨嗟の声を浴びて以来、

スポーツの試合で、
ひいきのチームを
直接応援しないようにしている。

東大のように負け続けていると
ツイこんな縁起もかつぎたくなる。

それにしても、
東大野球部100連敗の予想が
覆ってよかった。。。

何だか、
できたばかりの
東北楽天ゴールデンイーグルス。

最初のシーズン、
年間130試合中、

100敗するのではないかと
言われたことを思い出す。



(了)



5月、祭りの季節に想うこと~現政権と主権者国民~ 7


そもそも裁判所は、
憲法を含む法規範について、

国家としての統一見解を
示す機関であり、

最高裁判所は、
法規範の解釈について、

国家機関たる裁判所としての、
統一見解を示すところである。

しかしながら、
少なくとも、
世間の耳目を集めた事件について、

最高裁判所が、
国家機関として、

行政行為の違憲無効の判決を
出したことはないはずである。

こうなるともはや、
三権分立制の理念はともかく、

こと行政権を抑制するという
場面においての、
司法機関の働きは

現実には、全くといっても良いほど
機能していないと
評価せざるを得ない。

こうなると、
自分達の生活を守るためには
国民の主権者としての
自覚と行動しかない。

今年は
祭りに浮かれている場合ではないのだ。

さあ、どうする・・・・・



(了)



5月、祭りの季節に想うこと~現政権と主権者国民~ 6


立法権が
行政権の抑制ができないのであれば、

本来は、裁判所が、
行政権の暴走を抑える役目を
担うはずなのである。

しかしながら、
高度な政治判断を要する行為については、
三権分立の性質上、

司法権は及ばないとする、
統治行為論、

あるいは、
本来的に受け身である司法権は、

積極的に
国民生活に対応する
行政機関の決定に対して、

濫りに
無効と宣言すべきではない、

若しくは、
介入すべきではないとする、
司法消極主義により、

行政行為の
憲法違反の問題に対しては、
裁判所は総じて及び腰である。

残念ながら、
司法機関は行政機関の行為を

違憲無効とすることについては、
極端なほどに
慎重なのである。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 5


一昨年、
ナチの手法を真似られないものか、
と言った、

財務大臣・副総理の発言は
冗談ではなかったようである。

人類史上最も民主的と言われた、
ワイマール憲法を、

民主的な手続を「装って」
骨抜きにしていった、

ヒトラーの手法を
そっくり踏襲している。

だが、
アメリカ合衆国日本出張所と揶揄される
わが国の外務省が

今の風を吹かせている、
元凶の一つであるのも確かである。

外務省は
以前から自衛隊の
海外派兵を強く望んでいた。

日本国憲法の理念と異なり、
現実は残念ながら
三権分立になっていない。

日本は
行政権力が異常に強いのである。

これは、
極めて複雑化する現代社会に
対応できる国家機関は

行政権しかないから、
やむを得ない部分もあるが、

それでも、
立法権や司法権に比して、

極端に
肥大化する行政権というものは、

相互に
抑制均衡の関係を
持たせようとする趣旨の、

権力分立の原理からは、
決して望ましいことではない。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 4


憲法を
解釈や法律により、
実質的に変更することや、

憲法改正手続規定を、
改正することは、

軍事的安全保障・集団的自衛権の
行使容認の問題だけに
とどまらない。

何より、
基本的人権の保障を
その中核とする憲法というものは、

国家・公権力による不当な侵害から
国民を守る盾なのである。

だからこそ、
人権保障を
その中核に置いてあるからこそ、

国家においては、
最重要の法規範であり、

それ故に、
憲法改正は通常の法律と異なる、

厳格な手続を
要求されているのである。

これは、当然である。

人権保障規定が、
時の政権に都合のいいように

変えられることを
許すわけにはいかないからだ。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 3


また、
現政権は、
憲法改正手続が厳格すぎるという理由で、

こともあろうに
その改正手続を改正しようとしている。

現行憲法の改正手続規定は、
硬性憲法という憲法の性格を決定する、
最も重要な要素の一つである。

これが改正されたら、
憲法の性格が変わってしまう。

憲法の性格が
変わってしまうということは、

改正手続改正「前」の憲法と、
改正手続改正「後」の憲法との

同一性が
否定されるということである。

したがって、
憲法改正手続の改正は
理論的に不可能なのである。

緩和した
憲法改正手続持つ憲法が
欲しいのであれば、

現行憲法を廃止して、

新たに
その緩和した改正手続を持つ、
憲法を制定しなければならない。

「マジェスティック」
というアメリカ映画がある。

この映画のクライマックスで
主人公がこのように言う。

「憲法というものは
国民が国と交わした最も重要な契約です。」

まったくもってそのとおりである。

契約というものは、
当事者双方の意思の合致である。

一方の当事者である
権力者の都合により、

それこそ
一方的に変更することは
許されないのである。

憲法を
変更することができるのは唯一、

憲法を制定する権力・権限を有する、
主権者国民だけである。

そして、
憲法が一時的な気分や、
「拍手」「喝采」によって
変更されないように、

その手続には、
極めて厳格な手続が
要求されているのである。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 2


集団的自衛権の行使容認についての
是非は、
この際措いておこう。

たとえ、
集団的自衛権の行使容認という内容を
「是」としても、

その手続過程が、
内閣による憲法解釈の変更と、
法律による具現化というのでは、

これは大問題である。

現政権が
日本国として、
集団的自衛権の行使を

容認することが正しいと
思うのであれば、

堂々と憲法改正を提案して、
国会議員の3分の2以上の賛成で

国会に発議して、
国民投票に付すべきである。

それをしないというのは、
現政権に正攻法では
憲法改正ができないという認識や、

あるいは、憲法を改正することに、
どこか後ろめたい気持ちが
あるからだろう。

だから、
憲法改正ではなくて、
政府の解釈や法律で、

集団的自衛権の行使を
事実上容認するというのは、

いかにも、
アンフェアであるとの印象は否めない。



(続)



5月、祭りの季節に想うこと~主権者国民~ 1


東京の5月は、
第2週の神田祭に続いて
第3週は浅草三社祭、東大五月祭だ。

東京は
この祭りの季節を迎える頃が
さわやかな風が吹いて
最も気持ちよい。

塾長が
かつて住んでいた仙台も、
5月が一年で最高の時期である。

杜の都と評される仙台の5月の風は、
ことのほか心地よい。

しかし、
今年は厭な風が吹いている。

元凶は現政権である。

現政権は、
昨年憲法解釈を
変更するという手法により

集団的自衛権の行使を
可能とする
実質的な憲法改正を行った。

今年は、
憲法より下位にある法律によって、

集団的自衛権の行使容認を
具体化しようとしている。

いわゆる安全保障法制の制定である。



(続)



高い生活水準を望まない人~個人の人生観と経済政策 3

国民全体の豊かさの実現を
否定する意図で言ったのではない、
という反論が考えられる。

しかし、竹中平蔵氏のように、
経済政策の重要なブレーンの発言は、
好むと好まざるとにかかわらず、

発言者の意図とは無関係に
一人歩きするものなのだ。

竹中氏は、
そういう事態まで考慮に入れて、
発言すべきである。

それと、
まさか、そんなことはないと思われるが、

もし、竹中平蔵氏自身が
経済成長を目指さないことや、
国民の貧困化を

正当化しようと意図して、
殊更に発言しているのであれば、

これはもう、
国家・国民にとっては、
害悪以外の何物でもない。

国民全体を貧困から救い、
経済的な豊かさを実現するという、

経済政策の最も重要な目的に
真っ向から対立する。

もし、万が一そうであるなら、
即刻、
経済政策のブレーンから、
退いてもらわなければならない。



(了)



高い生活水準を望まない人~個人の人生観と経済政策 2


そもそも、
竹中平蔵氏は、経済学者であり、

また、現政権において、
経済政策の決定に

重大な影響を与える、
産業競争力会議のメンバーである。

経済政策の目的は唯一、
国民全体を貧困から救い、
経済的に豊かにすることである。

経済政策の専門家が、
こんなことを
言うべきではないだろう。

これでは国家が、
国民全体の経済成長を
目指さないことが、
正当化されることになってしまう。

また、
一部であると思われる、

経済的豊かさを求めない人の価値観を、
殊更に言うべきではないだろう。

それでは、
国民個々人が
経済的に貧しいことが、

一般的状態であるということに、
正当化されてしまう。



(続)



高い生活水準を望まない人~個人の人生観と経済政策 1

経済学者の
竹中平蔵氏がメディアの中で、

「生活水準が下がるのが
当たり前の時代、

高い水準なんか望まないという
人生観も尊重したい」

と言ったそうだ。

確かに、
彼のこの言のように、
経済的に豊かな生活を望まない人も
いるだろう。

そういう人の存在自体は
否定しない。

それは、
個々人の価値観や思想の問題だからである。

そして、
そういう個々人の思想自体は、
尊重すべきであることは、言を待たない。

しかし、
生活水準が下がることを
当たり前として、

社会一般が、
受け入れなければならないだろうか?



(続)



1192(いいくに)つくろう鎌倉幕府


これは余りに有名な語呂あわせだ。

しかし、
これが1185(いいはこ)に
変わってしまった。

「いいはこ」では、意味が分からない。

幕府というのは単なる器=箱ではなく、
征夷大将軍を首長とする、

武家政権における政治制度を含めた、
広範な意味を持っている。

似たようなものに
710(なんと)
りっぱな(すてきな、綺麗な、とも言う)
平城京、というものがある。

これを最近の小中学生が
「納豆」ねばねば平城京、
と言って覚えている。

これも、
これでは意味が分からない。

もちろん、
これでも、覚えていないよりはずっといい。

しかし、
「なんと」というのは、
南都であって、

これは、
平安時代以後の奈良の呼び名で、
平安京から見て
平城京が南に位置したことに由来する。

同じ歴史で
南都六宗(なんとりくしゅう)が出てくるが、

これが710年平城京遷都で
「納豆」では両者が結びつかない。

このように、
関連付けの基本的なものまでも、
いい加減になってきているようだ。



(了)



官僚という存在について思うこと 2


当然、
優秀な官僚はいくらでも居るし、

また、
官僚は国家社会にとって
必要不可欠なのである。

どうも、
我々は一部の不都合を見て、
その全体を評価し、

官僚は悪、大企業は悪、
原発に関わるものも悪、
朝日新聞もNHKも悪、

と十把ひとからげに
つい、言ってしまいがちだ。

その誤りについては
措いておくにしても、
このように言うことによって、

優れた人材が
それらの分野を
目指さなくなる恐れがある。

原子力発電所を例にとると、
原発は、
再稼働するにせよ、廃止するにせよ、

今後何十年にも亘って長期間、
細心の注意と最新の技術で
管理し続けなければならない。

そのためには、
原子物理学を修めた、
管理を担当する
専門技術者が必要なのだ。

原発は、自動車のエンジンと違って、
原子炉の運転を止めれば終わり、
というわけではないのである。

原発や電力会社を叩いて、
いっとき溜飲を下げても、

原子物理学を目指す人材が
いなくなれば、

将来的には、
原子力発電所を稼働も廃止もできない、
ということになってしまう。

こと原発に限らず、官僚についても、
優秀な人材が、
重要な分野に集まらなくなることは、

社会全体に対する損失が、
あまりにも大きいのである。



(了)



官僚という存在について思うこと 1


塾長は、数年前から、
「路上ドリンキング」と称して、

道端や公園で、優秀な官僚たちと
休日の昼から酒を飲む、
ということをやっている。

勿論
酔っ払うほど飲むわけではない。

これを続けていると、
社会が今どうなっているのか、
少しは見えてくる。

時には仲間と思ってか、

「この公園は向こうのほうが
邪魔されずに飲めるぞ。」
と教えてくれるオヤジさんとか、

「お兄さんたち美味そうに飲んでるねぇ。」
などと寄ってくるお婆さんがいたりする。

言うまでもなく、
国家の維持と運営を職務とする
官僚は激務である。

休日であっても、
昼日中から酒を飲んでいる暇など無い。

だが、
その貴重な時間を割いて、
色々見て回っている者もいるのだ。

官僚に対しての批判は、
しょっちゅう耳にする。

東大法学部を中退して、
マスコミに時折出ている男が、

同期で官僚になったやつに
碌なやつは居ない、
と某メディアで話していた。

しかし、
社会のどこにだって碌でもないのは
いるのであって、

官僚が
すべて碌でもないわけがない。

また、
官僚が居なくなって良いわけがない。



(続)



ハチ公と上野英三郎博士~東大農学部正門脇の像


あっという間に一年の三分の一が過ぎ、
東大の五月祭の季節となった。

その新緑の風が吹きぬける
農学部正門脇に、

ハチ公と
飼い主であった故上野英三郎教授の
ブロンズ像が立てられた。

ハチ公の銅像は渋谷駅前のものが
余りに有名だが、
上野教授と一緒のものはなかった。

それが今回教授の学部にちなみ
農学部に立てられたのである。

帰宅した上野先生に
喜んで飛びつこうとする
ハチ公と

腰を折ってハチ公に接する
上野先生の像は

いかにも
こういう様子だったのだろうなぁ、

と思わせてくれ、
思わず微笑んでしまう。

先日その農学部正門近くで、
台湾からののグループに
東大の場所を聞かれた。

何気なく正門を教えてから、
東大のどこに行きたいのか尋ねると
ハチ公の像を見たいと言う。

それならここだと連れて行くと、
非常に喜んで拍手までされ、
えらく感謝された。

そんなに有名とは知らなかった。
ハチ公の力恐るべし、である。

子供の頃、
渋谷のハチ公前広場で
三輪車でよく遊んだものだった。

学生時代も駒場から歩いて帰る時
ハチ公の前をよく通った。

今また、
違うハチ公に再会し
ちょっと上野先生のような気分だ。



(了)



偏差値について~合否判定とは無関係~ 4


以前の記事を再掲する。

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つまり、
偏差値は、入試の合否の基準には
ならないということである。

精神科医で受験評論家の和田秀樹氏も
言及しているように、

実際の受験においては、
偏差値で合否が判定されるわけではない。

受験の合否は、
当然のことながら、

受験した学校の入試において、
総合点で
合格最低点を上回ったかどうかの、

その唯一の観点だけで
決定されるのである。

確かに、
偏差値は受験勉強というフィールドにおいては、
重要な指標である。

しかし、
重要性を持つのは
受験勉強中、受験前までにおいてであり、
実際の受験の場においてではない。

そもそも、
実際の受験の場において
意味を有するのは、

入学試験において、
何点取れたかということである。

したがって、
偏差値を、
受験勉強から入学試験の合否に至るまでの

全てにおいて単一の基準とすることは
ほとんど意味がない。

あくまで、
偏差値とは、受験勉強という、

入試までの過程における
一つの目安であるに過ぎない。

受験勉強の目的はあくまで、
本試験において生の点数を取るための
知識を覚え込むことであって、
偏差値を挙げることではない。

偏差値が高い低いで、
一喜一憂する必要はさらさらなく、
そんなことは、
まさに愚の骨頂である。

受験に限らず、
基準や見方というものは、
様々あるものだという認識が重要である。



(了)



偏差値について~合否判定とは無関係~ 3


以前の記事を再掲する。

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人間もその人間が作る社会も
単一の基準では計れない

豊穣な世界であることは
誰でも知っていることだ。

我々は
早く単一基準によるランク付けから
脱却しなければ、

早々に衰退への道を辿る事になる。

こういうことを言うと、
じゃ、偏差値を全廃せよということか、

という極端なことを言う人が
たまにいる。

そうではない。
昔から言うではないか、
人は皆十人十色。

要は、
偏差値にしても、何にしても、
それを単一の基準とするのではなくて、

様々ある基準の一つと位置づけ、
その偏重をやめる必要があるのだ、
ということである。

何より、
受験に関しても、
そもそも偏差値というものは、

全受験生との比較において、
自分がどの位置にいるかの目安
となるものである。

しかし、
実際の受験は、
同じ学校を受験した者との比較になる。

そこにおいては、
偏差値というものは関係ない。



(続)



偏差値について~合否判定とは無関係~ 2


以前の記事を再掲する。

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これは、
金儲けという単一の価値基準で
人間を評価したものである。

いまや
この考え方が当然のように
言われているが、

そうであるならば
格差社会は当たり前の話なのだ。

教育現場も、
経済界などから即戦力となる学生を
要求され、

実学ばかりが重視され
教養や基礎学問は軽視されている。

偏差値の高い学生は、
知識が豊富であるし、
利に聡い者が多い。

当然のことながら、
将来金になる職業を選ぶことが
多くなる。

こうして階層化された社会は
一時は良くても
決して永続しない。

かつて、
アメリカの社会学者である、
エズラ・ボーゲルは

日本は必ず衰退する、
なぜなら
教育に偏差値を持ち込んだからだ、
と見事に喝破した。



(続)



偏差値について~合否判定とは無関係~ 1 


以前の記事を再掲する。

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偏差値についての批判である。
これは、
偏差値を最も重用する業界に居ながら、

偏差値批判は自己矛盾ではないか、
と言われるかも知れない。

しかし、
教育の世界に偏差値を導入したのは、

日本の国を
大きく衰退させることになる、
と考えている。

格差社会とか階層社会とか言われる社会は

単一の価値基準で
人々を比較することのできる社会のことである。

思想としてのグローバリズムを信奉する
グローバリストや、

新自由主義(ネオリベラリズム)の
経済学者たちは、

世界の富を
無制限の完全な自由競争によって
争奪することを認める。

得た者は勝者で、
得られなかったのは
自己責任だというのだ。

勝ち組・負け組みなどと
人々も言う。



(続)



喉元過ぎれば・・・・・~教育問題~


学校や授業のありかた、
受験制度などについて、

様々な問題があることは
確かである。

中には見当違いの
批判もあるが、的確な指摘も多い。

にもかかわらず、
一向に改善されないどころか、
改悪すら見られたりする。

原因は多々あるだろうが、
一つには
世論があまりこの問題に対して
熱心ではないからだろう。

熱心なのは、
学生・生徒・受験生とその親
という当面の当事者だけだ。

これらの当事者はしかし、
無事合格したり卒業したりすれば
問題意識など一瞬で吹き飛ぶ。

次に考える時は30年後、
受験生だった自分の子供が
学童になるときだ。

喉元過ぎれば
熱さを忘れるのは人の常だから、
仕方ないのかもしれない。

しかし、こうまで
当事者である期間が短いと、

いつまで経っても、
教育問題は解決されない。

実はこのことが教育問題の
隠れた重要部分なのである。



(了)



オールドルーキー~38歳の東大野球部一年生新入部員~

春の東京六大学リーグ戦が始まったが、

東大は相変わらず勝てず、
ついに90連敗。

仮令先取点をとっても、
それを投手陣が守りきれない。

しかし、
今年38歳の新人投手が
東大野球部に入部した。

思わずえっ!と言ったのは
私だけではないだろう。

実は現役の医者でもある彼は
東大野球部に入るのが夢だったそうで、

どうしてもその実現のため、
2012年に東京大学文科Ⅲ類を受験し、
合格して、休学していたが、

上司の勧めもあり、
今年勤め先の病院を退職して
晴れて東大生になったという。

昔、東大の三塁手になるのが
夢だと言っていた同級生がいたが、

夢が叶うかどうかは、
やはり、想いの深さによるのか。

確かに、
想いが深くても受かるとは限らない。

しかし、
想いが深ければ、受かる確率は、
間違いなく上がるのだ。

受験生は、動機は何でもいいから、
「どうしても」
という気持ちを強く持つべきである。



(了)



三権分立~日本国憲法の基本原則・立法・行政・司法~ 2

わが国では、
日本国憲法の勉強として
小学校から三権分立を学び、

中学校でさらに、
それら相互の抑制と均衡を学ぶ。

そのためか、
日本では、国民の多くが、

司法、立法、行政は
それぞれ独立している、
と、極めて漫然と思っている。

確かに、
理念としてはそのとおりである。

しかし、
現実は、
日本国憲法は議院内閣制を採用し、

立法と行政との
厳密な分離を維持していない。

制度上も怪しいものだが、
実際の運用となると、
三権分立など全く存在しないに等しい。

憲法上、
内閣総理大臣は国会が指名する、
つまり、
事実上国会の多数党の党首がなる。

ということは、
内閣総理大臣は
国会の多数党の党首として、立法府を掌握し、

また、
首相として、行政府を掌握する。

さらに、
裁判官は内閣が任命し、
最高裁長官は内閣が指名する。

すなわち、
内閣総理大臣にとって
都合のいい人間を
裁判官にすることが可能なのだ。

このように、
日本においては制度上、
三権の完全な分離は確保されていない。

本来は、
権力の集中を避けるための
三権分立が日本においては
事実上、殆ど機能しておらず、

内閣総理大臣は、
巨大な権力を握っているのである。

憲法がそうなっている以上、
国民は、内閣総理大臣には、

ふさわしい人間が
選ばれるように常に努力する義務がある
といわざるを得ない。

果たして、今の国民は
この努力を十分にしている
と、胸を張って言えるのだろうか?



(了)



三権分立~日本国憲法の基本原則・立法・行政・司法~ 1

三権分立、
あるいは権力分立とは、

国家権力が単一の国家機関に集中すると、
独裁が生じ、

権力が濫用され、
国民の権利・自由が
侵害されるおそれがあるので、

「国家に与えられている作用を、
その役割に応じて
立法・行政・司法というように『区別』し、

それらをそれぞれ異なる機関に
担当させるように『分離』し、

機関相互に抑制・均衡の関係を
持たせることによって、

国家作用の暴走・濫用による
国民の権利・自由の不当な侵害を防ぎ、

国民を守ることを目的とした、
重要な自由主義的政治組織の原理」
のことをいう。

そもそも憲法とは、
国家権力の国民に対する不当な侵害から、

国民を守るために
国家権力を制限する規範である。

したがって、
ここで言う憲法とは、

「憲法」"Constitution"
という題名が付いた法規範であれば
何でもいいというわけではなく、

国家の専断的な権力を制限して、

国民の権利を保障することを
内容としたものでなければならない。

このような内実・内容を持った憲法に基づいて
政治を行うべきという原理が、

「立憲主義」
と言われるものである。

しかし、立憲主義は、
国民が何もせずに実現されるわけではない。

個々の国民の、
不断の努力が不可欠なのである。

どういうことか・・・・・



(続)



憲法は誰に向けられているか

5月3日は憲法記念日である。
現行憲法、
すなわち日本国憲法が成立した日だ。

中学受験で大手の塾では
受験生、つまり小学生に
日本国憲法の全文を持たせている。

中学の公民の教科書には
日本国憲法が
載っているからである。

塾長は、
小学校6年生の時
憲法前文を暗記させられた。

憲法は
国で最も大切な約束だ、

だから
国民は皆守らなければいけない、
と教えられた。

だがしかし、
実は、この憲法を
守らなければならないのは、
第99条に書かれている人々、

すなわち、
天皇、摂政、国務大臣、
国会議員、裁判官、
その他の公務員である。

憲法が規律している対象は、
国民ではないのである。

国民の総意が
この人々に憲法を守れと
命じているのである。

すなわち、
これらの人によって構成されている、
公権力を
規律の対象としているのである。

つまり、憲法とは本来、
公権力を制限して、
国民の権利を守るためのものなのである。

しかし、今や、
この中で忠実にそれを守っているのは
天皇と摂政だけであろう。

国政を担当する
最高責任者が憲法を
守っていると言えるのであろうか?



(了)



検察とは~小渕優子議員と小沢一郎議員~ 2


小渕優子議員、松島みどり議員、
渡辺喜美議員と同じことを

小沢一郎議員が
やったとしたらどうだろう。

検察、マスコミの対応が
目に見えるようだ。

これは小沢一郎議員を
支持するとか、指示しないとか、

小沢一郎氏個人が好き都か嫌いとかの
彼に対する好悪の問題ではない。

法の下の平等の問題である。

基本的人権についての
重大な問題なのだ。

法の運用が
このように恣意的に行われる国家のことは、

民主国家とか法治国家
とは呼ばない。

それは専制国家、独裁国家
と呼ばれるのである。

それらの国では、
検察は、

民主国家・法治国家における、
国民全体の公益の代表者として
行動するのではなく、

国家権力の具現者として
人々に対峙するのである。

さぁ、日本はどっちだ!



(了)